往復書簡第4便 マンガについてと成長の物語

北川さま

 

いきなりの脱線にさっそくのお返事をありがとうございます。でもこういう対談って初めにできるだけ話を大きく振っておくと、その大きく振れたところからどっちに向かって話が進んでいこうとしているのか、「対談の持って行きどころ」が自ずと浮かび上がってくるので良いんですよね。

それに大きく振っておくと話のネタがあちこちに散在することになるので、いざ聴衆の前で話に詰まった時にも、パッと適当なところから話を展開できて安心です()

まあもっとも相手がモノローグ(独り語り)の人の場合だと、そのまま勝手に自分の世界に突っ込んでいってしまうので、対話のできる相手にしか通じませんけど()

 

「暗殺教室」というと、少年ジャンプに連載中のマンガですね。一時期、渋谷の駅前とか町中に大きな看板をバーンと打ち出して、集英社が社力を挙げて売り込んでいたので、「力入れてるなぁ」と思っていました。お話としてはよくある「落ちこぼれクラスの子どもたちを、先生がやる気にさせてゆく学園もの」ですけど、そこに「先生がマッハで動く化け物」で「クラスの目標はその化け物先生を暗殺すること(本人公認ですけど)」という、まさにマンガならではの設定が絡めてあって面白い話になっています。

 

私も読んで、これはまさに現代ならではの設定で絶妙だなと思いました。今の子どもたちって合理的で非常にクレバーなところがあるので、「こんなもんでいいんでしょ?」的な、「ここらへんまでやれば別に文句ないんでしょ?」的な、打算的な発想に陥りやすいですよね。

でもそれはきっと、まわりの大人たちがみんな適当にやっているから、子どもたちもまたみんな「こんなもんでいいんでしょ?」的に、適当にやっている面が強いんじゃないかと私は思うんですよね。ホントは子どもたちってみんな、「人間(つまりボク)って、本気でやったらどこまでできるの?」っていう疑問を持っていると思うんです。特に男の子なんかね。だからそういう意味で子どもたちは「おとなの本気」を見たがっているんじゃないかと。

 

その点、「暗殺教室」の先生はまさに命賭けてますから、いわば本気も本気です。「殺せるものならいつでも殺してみなさい」と言っているんですから。さらには「1年後(でしたっけ?)までにキミたちが先生を殺せなかったら、地球を滅ぼします」とか言っていますが、これは生徒たちからしてみれば「絶大なる信頼」ですよね。「キミたちの本気は地球と同じくらいの価値がある」と言っているのと同じことですから。そりゃあ子どもたちも食いつくような気がします。

 

ところで考えてみたら、この関係って武道の達人の師匠と弟子の関係そのものですね。「私に隙があればいつでもかかってきなさい」と達人が言って、弟子が師匠の隙を見ては打ちかかってやり返されて「まだまだじゃな」とか言われてしまう。麗しき師弟関係ですね~。

 

女性マンガとか少女マンガっていうのもまた独特の世界で面白いですよね。「ママはテンパリスト」はまだ読んだことがありませんけど、女性向けマンガって男性が女性の心の構造を知るためにはとても良い参考書なんじゃないですかね?()

少年マンガってストーリーも人間関係も非常にシンプルで単純ですけど、少女マンガを見てみるとストーリーから人間関係からもう繊細で複雑でグラデーションがすごいですよね。

昔、「NANA」が騒がれていた時に、「これだけ社会現象になっているなら読んでみよう」と思い立って、マンガ喫茶に入って10巻くらい一気に読破したことがありましたけど、その人間関係の複雑な絡み合いにクラクラしましたもんね。女の子って子どもの頃からこんな複雑な関係の機微を感じ分けているのかと愕然としました。私が少年だった頃なんて「敵!味方!うおー!ドッカーン!」くらいの思考能力しかありませんでしたよ…()

 

でも、私のオススメの「へうげもの」とか「どうらく息子」も、考えてみれば人間の機微を描いているマンガかも知れませんね。「へうげもの」は戦国時代の茶人・古田織部を主人公に茶器をめぐる人間ドラマを描いた作品。「どうらく息子」は落語の世界に入門した若者を主人公に、落語家の師弟関係などを描いた作品です。

どちらも何というか日本の侘び寂びのような、そんな人間関係の機微を描いていて良いんですよ。どちらも連載中なので、話はまだまだ続いていますが、もしまだお読みでないならぜひぜひ。

 

しかし、ここでまさかマンガからジョセフ・キャンベルに行くとは思いませんでした。その飛躍が良いですよね~。

ご指摘のキャンベルの神話研究は、非常に有意義でまた鋭い指摘をしてくれましたよね。

「旅立ち」「達成」「帰還」という神話の三部構成というのは、まあ言ってしまえば神話というのは「往って還ってくる物語」だということなのですが、その間には「師との邂逅」「試練」「変容」などの通るべきプロセスがあって、それらのプロセスを経ることによって、還ってきた故郷(原点)が出発前と同一点なのではなく、「一つ次数が繰り上がった地点」になるということなんですよね。

これはまさにおっしゃるとおり、「人間の成長の物語」であると言って良いでしょう。

 

シュタイナー教育などではまさに、フォルメン線描やオイリュトミーという独自のカリキュラムにおいて、子どもたちにある種の「往って還ってくる運動」をくり返し行なわせますが、おそらくそのときも往って還ってきた時には同じ地点に帰ってきているわけではないのだと思います。

ここは追求していくと非常に深い問題になってきます。少なくとも私は語り出したら止まらなくなるくらい語り出すかもしれません()

 

でもこのただ「往って」「還ってくる」ことがキャンベルの言うようなヒーローズ・ジャーニーになるためには、その間の「体験」に、やはりポイントがありますよね。

つまりまさに「劇」的成長とも言えるこの「ブレークスルー」が人間に訪れるための秘密が、物語の中には描かれている。私はそのキーワードの大きな一つには「セレンディピティ」というものがあると思っています。

 

「セレンディピティ」というのは、言ってみれば「意図せず宝物を発見する能力」なのですが、そこには「己の想定をつねに自ら逸脱し続ける才能」とでもいうようなものがあります。己の想定を自ら超えて、その結果に自ら驚きそして学ぶ。

これは人が精神的、身体的に変容していくためにきわめて重要な能力であると思いますが、北川さんはどう思われますか?

 

RYO

 

 

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コメント: 2
  • #1

    sextel (火曜日, 31 10月 2017 21:09)

    nieodstraszenie

  • #2

    sextelefon (水曜日, 01 11月 2017 02:12)

    doigrywając