北川さま
「逸脱する師匠」とは良いタイトルですね。師匠とはそうでなくっちゃいけません(笑)。
師弟関係というのは私にとっても最大のテーマの一つですが、やはり「逸脱」というのは外せないコンセプトでしょうね。たしかに師とは、「枠を壊し続けてくれるモノ」の名なのだと思います。それはつまり、まさにおっしゃるとおり「新陳代謝のプロセス」であるのですよね。破壊と創造のくり返し。それこそが生命活動であり、進化成長の歩みです。
シュタイナー教育でも教師の資質として語られることですが、自分の知っている知識を子どもたちに享受するのが教育であるなら、それは単なる知識の取次人に過ぎないんですよね。冷たいカチッとした知識の結晶が、こちらからあちらへと受け渡されるだけ。そうではなくて、いま目の前の人間の中で何かが息づき、そしてまさに何かが生まれ出ようとしている、そのような運動を子どもたちの目の前で繰り広げてみせる。それが教育なのだと。
だから教師はつねに「自分の言葉」で語り直すことを求められます。なぜなら覚えてきた言葉をそのままそらんじるだけでは、そこにはまったく「熱(あるいは生命)」というものが込められないからです。教育者は絶えず、自分が学んだものを破壊し、噛み砕き、跡形も無く消化してから、自らの言葉で語り直すということを行なう。それは教育者自身が、「新陳代謝のプロセス」を絶えず活発に動かし続けるということでもあります。生成のプロセスそのものを、目の前で積極的に開示して見せる。それは教育者として非常に重要な資質だと思います。
また、おっしゃるように、ヒーローズ・ジャーニーというのは、つねに「外部からの要請」によってそのきっかけが訪れる、というのもなかなか面白いですよね。「オレは生まれ変わるぞ!」と決意して旅立つのでもなく、ひょんなきっかけで自分が何かの責務を担わなくてはならなくなってしまって、「しょうがないな」と旅立つ。
そういうお話ってたいてい、「わらしべ長者」みたいに、自分では自分が持っているものが何の役に立つのか分からないけど、周りの人間にはたびたびそれを必要とされて、そしてそのたびに「いいよ」と言って、自分の持っているものをその人たちのために行使していきます。本人も自分の意志によって何かをつかみ取っていくというよりも、何だか分からない大きな流れの中でまるで差し招かれていくように、自分のやるべき事が決まってくるような、そんな感じで旅を進めていく。私はそういう「到来するもの」をパッと受け入れていく姿勢を、「開かれた構え」と呼んでいますが、それは師弟関係で言えば「弟子の構え」として大事なところだと思っています。
師弟関係というものを語る際、「師の素質」というものがよく語られますが、私は「弟子の素質」というものも非常に重要なのではないかと思っています。なぜなら、関係とはつねに両項(「師」と「弟子」)の布置によって決まってくるものだからです。
弟子に元々の実力や才能があるということも、その弟子が成長していく上ではもちろん大切なことでしょうけれども、私が言いたいのはそれ以上に、弟子が「弟子としての素質」を持っているかどうかということです。それは「弟子の立ち位置、学びの姿勢」と言っても良いかもしれません。
師匠やあるいはその他の物事に対して「どのような態度で臨むか」ということは、その人の学びの力として非常に重要なところです。先ほど私が挙げた、到来するものをパッと受け入れていく「開かれた構え」というのは、あらゆるものを受け入れていくという点で、その人の「伸びしろ」を担保します。
何だかよく分からないものがやってきたときに、「よく分からないから」と言って拒否するのと、「いったいこれは何だろう?」と言って受け入れていくのでは、これからその人が変わっていけるかどうかというところで大きな差がつきます。どんなに優れた実力を持っている者であっても、弟子としての構えのない者はそれ以上の伸びしろを持ちません。逆にどんなに不器用な者であっても、弟子としての構えが最大限に開かれている者は、ほぼ無限の伸びしろを持つことになります。
私は「どんなものであっても良いから弟子入りしてみてください」と、しばしば皆さんに弟子入りのススメをすることがあるのですが、それは「弟子の構え」というものを身に付けて欲しいからなんですよね。何故なら「弟子の構え」というものを身に付けると、その人はグンと成長の伸びしろを持つことになるからです。
これはぶっちゃけた話、本人の構えの問題なので、その場合の師匠は何でも良いんですよね。何かの先生でも、先輩でも、奥さんでも、家のポチでも、そこらへんの木や石でも良い。弟子としての構えをきちんと持てれば、あとはどんどん成長していける。何しろ学びが開かれているということは、公園の木の泰然とした姿からも、奥さんの子どもに対するあしらい方からも、ポチの弛みきったあるがままの姿からも、何か学ぶべきものを見出してしまうということなんですから。路傍の石からも学べる人は、死ぬまで成長し続けられるでしょう。
私は以上のような持論を、師匠が後ろで見守ってくれていた自分の講座の中で繰り広げたことのある不届き者でありますが、でもホントにそう思っているのです。
(師匠の前で「師匠ってのは何でも良いんです」と言ってしまいました。師匠は笑っておられました。)
あとは弟子の構えとしてもう一つだけ付け加えるとしたら、弟子の責務として「師弟関係を美しく語る」ということですかね。「師匠ってのは何でもいい」とか言っておきながら矛盾しているようですが。
これは個人的な思いや好みも多分にあるかも知れませんが、師弟関係において、たとえばケンカ別れして(そこまでは良い)、そのあと師匠をけなすような文句を公言するような人間は、弟子として品が無いと言いますか、格が知れていると言いますか、まあそういうことはいかがなものかと。
現実の師弟関係というのは、いろんなことがあるかも知れないけれど、それをどこまで「美しく語れるか」ということは、これもまた「弟子の器」であると思うのです。なぜならその営み自体がまた次世代を育てることを考えた「教育」なのであり、それができるかどうかということは、その人が「真の教育者」であるのかどうかの大きな判断ポイントだと思っています。
私はまだ師などと呼ばれるほどの存在では到底ありえない未熟者でありますが、弟子としてならばある程度は人に自負できるだけの自信があります。「あらゆる者の弟子たらん」とする思いは、人一倍強い。私はこれを「弟子道」と呼んで、ひとり密かに求道しているのであります。
北川さんはご自身が「学ぶ側」「教える側」のそれぞれに立ってみて、「学ぶ」ということ、「教える」ということについて、何か考えていることなどありますか? あるいは「これこそが教育だ」と思えるようなマンガをご推薦いただいても構いませんが…(笑)。
RYO
よし (火曜日, 16 7月 2013 13:19)
「何でも良い」という考え方はとても素晴らしいと思いました。
理由は後からいくらでもつけれそうですし、以前ブログで先生が「会いたい人には必ず会えますよ」とおっしゃっていましたように、本当にばったり会えるので、「唯、ご縁」なんだなあと不思議に思われます。
分からないことに対して好奇心を感じるというより、
不安を感じてしまう場合、安心するまで、その不安に耐える強さはどこからくるのでしょう。
向き、不向きはあるでしょうし、似合う、似合わないはあるのではと思われ、向いていない、似合っていないのは本人はもちろん周りの人にとっても辛いことでしょう。
自分のことは一番分かっているようで、一番分かっていないように感じます。
だから「鏡」を求めるのでしょうか。
お師匠様(鏡)は何でも良いとしても、弟子はお師匠様(鏡)に選ばれた人なのではと思われ、
それは、子(鏡)が母を選んで産まれてきてくれたように
お師匠様は年上もちろん、年下でも親子ほど離れていたら、時々でも、すんなり、耳を傾けてゆけるのですが、同世代の年下は、少し、(いや、大分かな)話しすぎてしまいます。
「教えてください」という態度は雰囲気で伝わってくるようで、年上の方からそのような態度を感じたら、
善悪の間で迷うだけではなく、判定までもし、よりどころのない凡人の私は(子どもの鋭い反応にいつもオロオロしてしまう)
自然と素直にどこまでも耳を傾けていこうという気になります。すごいなあと感動してしまいます。
いつまでも私が年下であるはずがなく、
年下から素直に学べるよう、成長して往けたらなあと思います。
一番は我が子に鍛えられています。
先生は私より年上なので、いつまでもその事実はかわらないのでしょう。少し(いやかなり)安心してしまいました(笑)