往復書簡第8便 閉じられた関係の開かれた構え

北川さま

 

動画見ました。いやぁ~すごいですね。ミカエル・リャブコ師。

初めて動画を拝見いたしましたが、古い日本の武芸の達人を彷彿とさせますね。習いに行った人が、習いに行ったはずのものと別のものを持ち帰ってきてしまうというエピソードがまた、その感を強くします。

たしかに教育という現象は、教える側教わる側双方にとって未知の部分を多分に含んでいるもののように思います。まあその秘訣を知っている者にとってみれば、たとえどんなことが起きようとも、まったく不思議でもなんでも無いことなのかも知れませんが…。

 

しかし、『「システマをやるにあたって、何か必要な素質はありますか?」と尋ねられた時には決まって「ミカエルに会いにモスクワまで行けるかどうか。それがどんな才能にも優ります」と答えてしまう。』という北川さんの言葉は素晴らしいですね。その北川さんの姿勢には、私も最大級の賛辞を送らせていただきます。ホントにそれはどんな才能にも勝ることであるやも知れませんし、またそれができるということはどんなに幸せなことでもあるでしょうか。

 

北川さんのその言葉を聞いて、私は「心の師匠」のお一人である料理人の辰巳芳子先生のエピソードを思い出しました。

 

『数年前、この卵焼きを発表して二ヶ月ほどたった春の朝、山形なまりの電話を受けました。私は鶴岡の在に住むと名前を告げられて「あの卵焼きをぜひ作りたく、ついてはそれを焼く厚手鍋を見てみたいと思い、夜行でまいりました。今、バス停におります」。やがて玄関の上がりかまちに背も丸く手をつかれたのは、なんと八十歳前後の高齢の方でした。「突然をお許しください。私の田舎は間もなく鉄道が廃止となり、それからではお訪ねかなうまいと思いたちました」彼女は午前中いっぱい、鍋を見、さわり、焼き方を習い、食べ、旅の疲れも見せずいちいち納得、満足して「それでは、これにて」と帰ってゆかれました。何かのついでなどではなく、念仏講の人たちに卵焼きを食べさせたい、それには鍋を確かめたい、の一念だったのです。じみな白黒写真記事の、この一点に心を集中して、老いの身を運ばれたのです。何とうらやむべき純粋で若々しい探究心でしょう。二度とお目にかかれそうにない後ろ姿を見送りながら、自分の感応力を信じられる人の幸せをつくづく思いました。』(辰巳芳子「味覚旬月」ちくま文庫、p247)

 

「これだ!」という自分の直感にしたがって、あらゆる困難を何とも思わず邁進できる。私もそれは本当に「幸せなこと」だと思います。そういうことができる人からすれば、「やればいいじゃない」というだけの何でもないことなのかも知れませんが、でも「そういうこと」ができる人ってなかなか少ないんですよね。そういう意味では、そういうことができるということ自体が一つの才能であるのかも知れません。私の言う「弟子道」においても、それは確実に「最上級の才能」の一つであると言えましょう。

 

北川さんは自分のなさっていることを「右から左へと流すだけ」と謙虚におっしゃっていますが、その「流すだけ」のこと、つまりミカエル師の伝えんとするところを忠実に再現しようとするところに、最大限の苦心と努力をされていることと思います。だって、できるだけ忠実に「パスする」ということは、決して努力無しではできませんからね。そこにはきっとすでに北川さんの人知れぬ優しさと情熱が入っているんでしょうね()

 

「てめえ(自分)の事情を持ち出さない」ということを私も自分によく言い聞かせていますが、師匠から学んだことをそのまま客観的に深めていくことと、それを「自分の好み」や「自分の理屈」といった「てめえの事情」に引き寄せていってしまうことは、まったく違うことだと私は思っています。「てめえの事情」を持ち出してそちらに引き寄せていくことが一概に悪いとは言いませんが、個人的な感覚で言わせてもらうと、たいてい「つまらないものになってしまう」ことが多いですね。

 

かといって一切何も考えず、何も変えずに忠実になろうとしても、それは単なるコピーになりかねない。それどころか文字通り師匠をコピーすることだけに終始していけば、あらゆる世界中の模造品の例に漏れず、技術や思想が劣化していくことは避けられません。ある一門があったとして、その弟子たちがみんな師匠の小さなコピーばかりなんていうことほど悲しいことはありません。いずれその弟子たちは「どちらがより正確なコピーか?」という争いに終始して、その一門は劣化の一途をたどりながら、空中分解してゆくことでしょう。まあもしそんなことがあったとしたら、私ははっきり「師匠が悪い」と思いますけどね。

(落語家の春風亭昇太は「弟子が誰も師匠に似ていなかった」という理由で師匠を決めたそうですね。関係ないけど)

 

でもそう考えると、はたして「忠実であること」と「独自であること」との間には、いったいどんな違いとどんな共通項があるのでしょう? 「閉じられていること」と「開かれていること」にはどんな違いがあるのでしょう? これはもう私自身にとっても最大のテーマであって、どちらが良いのか一概に語ることはできません。

 

たとえばシステマを学ぶ上で、ミカエル師に対して「閉じられた師弟関係」を取り結ぶことは、おそらく非常に大切なことなのだと思います。それは誤解を恐れず言えば、ミカエル師の周囲に渦巻くさまざまな人の「てめえの事情」に惑わされないためでもあります。ですが考えてみるとそれは、周囲に対して「閉じられた関係」であるのと同時に、ミカエル師に対してのみは「開かれた構え」であるということなんですよね。

 

ミカエル師の一言一句、一挙手一投足のすべてが珠玉の教えと思って、全部丸ごと飲み込むつもりで全身全霊「開かれている」。そのためにそれ以外の外部の情報はすべて「閉じられて」いて、シャットアウトされる。ここで「開かれていること」と「閉じられていること」がまったくもって表裏一体となって連れ添っております。

 

では、子どもの教育という点から考えたときには、いったいどのような教育関係が良いのか?? これもまた難しい問題で一概には答えが出ません。ですが、少なくとも私自身に限って言えば、教育においては「未知(他者)に対する敬意」というものが最大限に重要だと思っているので、「他人」「先生」「神様」「自然」のようなモノたちに対して、礼儀を持って接するということを子どもたちには教えているし、また自分自身、子どもたちの前では努めてそのように振る舞っています。それはつまり私自身が、未知(よく分からないモノ)に対して「開かれた構え」でいるということであると言えるでしょう。

 

ですがそれと同時に、子どもをある意味「閉じられた世界」に置いておくことを、非常に強く意識しております。それはつまり、子どもが接するには「まだ早すぎる」ものが世の中には溢れているからです。その境界線をどのあたりに引いていくかということは、人によってさまざまであると思いますが、あまりに無防備に子どもにいろんな情報を与えていってしまうことは、いわば子どもの「知的早産」を促すことになるわけで、それはとても気をつけています。

 

だから北川さんのご質問に答えるならば、「子どもに対しては、閉じられた関係を持ちながら、その中で開かれた構えでいることを目指している」という事になりますかね? 子どもは基本的に真似して学びますから、子どもの何かを教えるならば自ら実践して見せていくしかないと思っていますので、私自身が「開かれた構え」を実践していくということが、私の「子どもに対する教え」ですかね。

 

北川さんは、お子さんに対して「これに関しては譲れない」「これだけは気をつけている」など、何か特別意識していることなどありますか?

 

RYO