往復書簡第5便 逸脱する師匠

「意図せず宝物を発見する能力」「己の想定をつねに自ら逸脱し続ける才能」。

それは私自身がシステマを学ぶ上でも、親子クラスを進める上でもとても大事にしています。セレンディピティという名称があったのですか。知りませんでした。今後、あたかも前から知っていた言葉のように使わせていただきます(笑)

「己の想定をつねに自ら逸脱し続ける能力」の有無はその人の成長を大きく左右するように思います。これって自分が別人になることをどれだけ受け入れられるかということではないかと。なぜなら学びとか成長には、常に別人になり続けていくという側面があります。ですから、新しい自分になるために過去の自分を捨てる。それを新陳代謝のように繰り返していけばどこまでも成長していけるのですが、どうも人間の脳はものごとを固定して認識したがる傾向があるようです。つまり、自己イメージという形で長所も欠点も含めて、自分を固定してしまうのですよね。これが、別人になることに対する強力なブレーキとなります。

 

私は「そのまんまの君で良いんだよ」というフレーズに抵抗感を感じるも、そこにはこの中途半端な形で固定してしまった自己イメージを肯定するような印象を持つからなんですよね。

 

こうした枠を壊す役目を担うのが、やはり師匠の存在かと思います。これは私が大きな影響を受け、なおかつお世話になった武術研究家甲野善紀氏の考えですが、師弟関係について非常に当を得た指摘と言えるでしょう。

師匠との付き合いの中において、想像を絶する技術や事実がこの世界にあり、それが自分にも実現させられる可能があるということ。そしてそのためには今のままの自分ではダメであるということ。この二つを実感できた時に、人は自己イメージの牢獄から外に出て「意図せぬ宝物」に出会う第一歩を踏み出すのではないでしょうか。ここで言う「師匠」とは、何も直接会える実在の人物である必要はありません。歴史上の人物であれ、何らかの著名人であれ、無名の素人であれ、自己イメージから逸脱する第一歩を踏み出すきっかけを与える人物であれば(もしくは人間でなくても)良いのです。

 

ヒーローズ・ジャーニーで特に面白いと思うのは、主人公は決して自分からは動かないということなんです。護符や地図をもらって、果たすべき目標を見いだして、なおかつ誰かに連れ出してもらわないと、決して旅には出ません。マンガで言うなら「ONE PIECE」のルフィにしても、丸裸で旅に出る訳ではありません。赤髪のシャンクスや兄のエースと言った人々との出会い、その他様々な事件によって外の世界へと誘われ、ゴムゴムの実を手に入れ、なおかつ時が満ちた時にようやく旅に出ます。ドラゴンボールの孫悟空にしてもブルマが強引に連れ出さなければ、いつまでも山奥で魚を穫って暮らしていたことでしょう。あらゆる艱難辛苦を木っ端微塵に砕いてしまうような悟空やルフィでさえ、旅立ちの最初の一歩を踏み出すには、他者の力を借りているのです。これは「今の自分」からの脱却がそれくらい困難であることを示しているように思えてなりません。

 

私もシステマ創始者ミカエル・リャブコを筆頭に、多くの師と呼べる人に会いましたが、こうした人々の力がなければ、こじんまりした自分の中に閉じこもっていたに違いありません。今の私にもしセレンディピティ(うう。嚼みそうだw)があるとしたら、それはこうした人々によって涵養されたもののように思います。もちろん本人達にその自覚はないのでしょうけれども(苦笑)

 

では外に引っ張せる師匠とそうでない師は何が違うのか。そこには明確な違いがあるように思います。単純に言うなら「変化し続けているか、そうでないか」ということ。進歩し続ける師と一定期間つき合うと、進むベクトルが見えてきます。その先が何なのかを知ることから得られるものは計り知れないものです。

 

山上さんもまた、河野智聖先生など多くの素晴らしい師との出会いがあったことでしょう。また自らも師として人に何かを伝える立場に立たれていることと思います。学んだことから苦労まで色々とあるかと思いますが、山上さんは師弟関係についてどう思われますか???

 

北川

 

PS

「へうげもの」と「どうらく息子」は未読です。面白そうなので読んでみます。こうして私がちまちま貯めたTポイントは全てTSUTAYAのレンタルコミックに費やされていきます(笑

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コメント: 4
  • #1

    ままあ (水曜日, 26 6月 2013 14:20)

    とても面白いお話ありがとうございます!
    漫画も小説も大好きなので、書簡のやりとりに、とても共感しました。親と子の関係もセレンディピティが大切、というか子どもによってその能力を磨いてもらっているように思います。むしろ子どもの方が師匠、な感じで、そのままの母親で愛してくれつつも、どんどん成長していくから、同じやり方では通用しなくて常に変化を求められる…。「意図せず宝物を発見する能力」なんてこどもそのまんまですし。子どものお陰で、大きな物語の主人公として旅立ったような…そんな思いを抱きました。

  • #2

    sachi (木曜日, 04 7月 2013 12:49)

    そのまんまの君でいいんだよ。に抵抗を感じるというところに強く頷いてしまい、おもわずコメントさせていただきます。
    まずは、往復書簡開設いただき閲覧させていただきありがとうございます。
    私は山上先生の講座を受けており長野で新たな会場を作ろう(?12月は決定でお願いします)と段取りしている渡辺と申します。
    私は常に今の自分とは違う誰かを演ずるために、生きてきたような気がしています。そしてそれを得るとまた違うものが見えてきて…。私はそれで良かったと思っていますが、子どもを育てることになったとき「そのまんまでいいんだよ」という発想に出会い、常に欲求不満だった自分にさよならができました。
    話の論点がズレてしまうとまずいのですが…
    その違和感は、長女に育ったからだと思っていました。常にこれじゃだめもっとよくなれ。ここまでっていわれたから、頑張ったよ!って母に胸を張っても、ここがだめだった。といわれる…。そんな繰り返しから、青天井の人生を歩んでいたのかもしれません。人に認められるとこそばゆい。自己肯定感とも違う…。私は師匠という先輩に導かれていたのもうなずけます。そして書物にも共感し、成長していたような…。
    なんだか勢いで書いてしまいました。 すみません。
    わかるわかる! ?わかるかも… ? ?????  共感に書かずには入れない失礼をお許しください。 ありがとうございました。。。。。

  • #3

    sekstelefon (火曜日, 31 10月 2017 23:29)

    konusując

  • #4

    sextelefon (土曜日, 18 11月 2017 00:28)

    niekochany