往復書簡第7便 右から左

お返事遅くなりまして申し訳ありません。

 

というのも昨日までモスクワにいたのです。せっかく師匠についての話題なので、私の大師匠であるミカエル・リャブコに会った直後に返事を書いたほうが、面白いかなと思いまして。

 

ちなみにミカエル・リャブコとはこんな人物です。

 

 

 

ロシア内務省所属の特殊部隊(SOBR)の将校として軍務に就きつつ、軍の内部でシステマを指導。現在は軍の第一線を退きつつもロシア連邦検事総長の補佐などを務めているそうです。言って見ればかなりゴリゴリの軍人なのですが、実際に会うととても柔和な人格者です。マンガで例えるならまず思い浮かぶのはスラムダンクの安西監督です。温厚な名伯楽として知られる安西監督はかつて「白髪鬼」と呼ばれるほどの鬼監督。桜木花道に対してもごくたまにその片鱗を覗かせますが、その辺もミカエルにそっくりです。

 

私はこの人に会うためにロシアに通うわけなのですが、もしこの人がただの武術の達人であれば、ここまで入れ込むことはなかったことでしょう。ただなんとなく、人としての生き方まで全てを含めて、なにか「自分には全く欠けているけど、なにかとても重要なこと」を、持っているという予感だけに導かれている感じです。それが何かを探っていくのが私のシステマトレーニングと言っても過言ではありません。

 

ではそんなミカエルから、どのように学ぶのか。それに関して深く考えさせられたある出来事がありました。4年ほど前に日本から20名ほどの団体でモスクワに行ったことがあります。その中に一人、マッサージ師がいたのですが、マッサージ好きなミカエルはセミナーの最中、ことあるごとに彼を呼び出してはマッサージをさせていたのです。

そのため彼はあまり練習に参加できないまま、セミナー期間を終えてしまいます。しかし帰国、治療院に戻って施術を再開したところ、馴染みのお客さんが異変に気づきました。モスクワ前後で、触れる手の感触がまるで違っていると言うのです。

 

マーシャルアーツの練習をしにいったはずなのに、なぜかマッサージの腕が変質しまっている。しかし本人には全くその自覚がない。こういったことをミカエルはやらかすのです。私自身に関しても、仮にシステマのトレーニングをしてある程度上達したとするなら、そのほとんどは、ミカエルが伸ばしてくれたものという実感があります。実感と言っても、伸ばされたその瞬間には全く自覚できず、誰かに指摘されたり、後からじわじわと実感が生まれて来たりする感じです。確か野口整体でも本当に優れた潜在意識教育とは、本人に気づかれることなくいつの間にか完了しているものだと思うのですが、それに似たことが行われているのかも知れません。

 
しかし私はいちいち自分の頭で考え、納得したい性質なのでミカエルから受け取ったものを分析し、客観視しようとしてしまいます。それによっていったん、ミカエルから受け取ったパワーのようなものが低下するのですが、ある程度分析と理解が進んでくると、再び似たようなことができるようになります。つまり私がシステマのトレーニングで行っている努力とは、自分を向上させるというよりも、ミカエルがいったん引き上げてくれた地点に再び自力で行くという形で行われているのです。(ちなみに私の家内もシステマを学んでいるのですが、私とは全く正反対のアプローチです。つまりミカエルから受け取ったものを全く分析せず、そのまんまキープしてしまうのです。)
 

こうした経験を通じて思うのは、山上さんが言われるところの「開かれた構え」というのは、師に対して特定の何かを期待しない、ということなのではないかということです。一般的に、何かを学ぶ際には自分なりのテーマを持つということは、とても大事なことのように考えられていますが、それは自分が師から受け取るものを取捨選択し、制限してしまうことになりかねません。すると先に述べたような「マーシャルアーツを学びに行ったら、なぜか本職のマッサージがうまくなった」みたいな予期せぬ変化を妨げてしまう可能性があるのです。

 

3月に行われた来日セミナーでも、ミカエルがちょっとしたサポートをするだけで、参加者達の動きがどんどん変わっていってしまうということがありました。なので私はこんなに任せて良いのか、と思ってしまうくらいミカエル任せな態度なのです。

ですから、「システマをやるにあたって、何か必要な素質はありますか?」と尋ねられた時には決まって「ミカエルに会いにモスクワまで行けるかどうか。それがどんな才能にも優ります」と答えてしまうほど。

さらには例え先輩インストラクターであっても、ミカエルのやっていることと違うと判断したら、途端に聞く耳を持たなくなってしまうほどの閉じた態度でもあります。なので石や猫からも学べるほどの境地とはほど遠いと言えるでしょう。

 

その点において、山上さんと私とでは微妙に「開かれた構え」のあり方が違うかも知れません。この理由はもしかしたら、創始者が存命中かどうかということに関係しているように思います。

 

システマの場合、創始者がまだ存命しており、直接指導を受けることができます。これは私にとって合気道なら植芝盛平師が、野口整体なら野口晴哉師がまだ生きて元気にそこにいるようなものなのです。ただミカエルもなんとなく引退の準備をし始めている気配があるので、いつまで今のように学ぶことができるのか分かりません。そのため私は今、ミカエルからどれだけ多くを学ぶことができるか、ということに専念しています。なので私の「開かれた構え」はミカエル限定なのです(笑)。強いていうなら、これが私なりの「弟子道」なのかも知れませんね。

 

ここにはミカエルに学んだことを日本や後世に伝え残すにあたって、できるだけ純度を高く保ちたいからという意味もあったりします。どれだけ気をつけていても、自分や誰かの解釈といった不純物が混じってしまうものですからね。

 

ただここで気をつけているのは、ミカエルから学びつつもミカエルを目指すわけではない、ということです。目指すべきは今なお進化し続けるミカエルが目指す先の世界です。ブルース・リー師父が言うところの「月を指す指ではなく、月を見よ」ということに通じるような気がします。

 

私がこんな態度ですので、教える側に立ってやることと言えば「右から左へと流す」ことに尽きてしまいます。ミカエルから学んだことをできるだけそのまま、時として噛み砕いたりはするけれども、ただパスするだけです。仲間や読者にいちばん良いものを届けることを考えると、これがいちばん効率が良いのですよ。ただ全くもって私の力が足りず、全然パスしきれていないというのが実状なのですが(苦笑)

 

ただこの「右から左」方式には一つ、メリットがあります。私のパスを受け取った人達が、それを自分なりに解釈してくれるということです。それによって私はミカエルから受け取ったものを、また別の角度からみられるのですよね。つまり一人じゃとても消化しきれないものを、仲間に手伝ってもらうことで自分のものにしていくことができるのです。その意味で私は仲間におおいに助けられています。週に10コマペースでクラスを入れてしまうのも、その仲間を通じてみられるシステマの未知の側面に触れられるのが楽しいからに他なりません。

 

このように私の弟子道は「創始者に学ぶ」という一種、特殊な状況に特化したものなのですよね。だから当然、構造的にある程度の閉鎖性を孕みます。その点を考えると、子供に身につけて欲しい学び方としては、山上さんの言われる何者からも等しく学べる弟子道の方が適しているように思います。

 

私は4歳の女の子の父でもあります。この子も一緒にモスクワに行ってミカエルと遊んでもらってきたのですが、これからの時代を生きるにあたって、何らかのスキルや知識よりも、適切な学び方を身につけてもらえればと思っています。学び方さえ分かっていれば、何か自分のやりたいことが見つかった時にその道に進む助けとなることでしょう。ただそれってどのようなものなのか。そしてどう身につけさせていくものなのか。現時点で私は試行錯誤しています。

 

山上さんは自らの「弟子道」は、子供の学びにおいても同様に使えると思われますか?

もしそれが使えるのであれば、どのようにして子供に伝えていくのでしょう。

その辺について考えをお聞かせ願えれば幸いです。

 

北川