往復書簡第9便 「出せば出すほど出したくなる」

お返事遅れてすみません…。

今度はトロントに行ってました(苦笑)

出先からアップしようと思ったのですが通信状況が思いのほか悪く、作業にならなかったので後回しにしてしまいました。ごめんなさい。

ところですごかったですか。ミカエル(笑)

私がミカエルに学んだいちばん大きなことを一つ挙げるとするなら、「あまりにレベルがかけ離れていると、すごいかどうかすら分からなくなる」という体験をできたことで

す。

システマ界には、私のような一般のシステマインストラクターでは足元にも及ばない「シニア・インストラクター」と呼ばれる人々がいます。そのシニア・インストラクター達がさらに足元にも及ばないのがマスターと呼ばれる人達。トロント本部のヴラディミア・ヴァシリエフやロシアのトップアスリート達にトレーナーとしてシステマブリージングを指導するヴァレンティン・タラノフを筆頭とした数名がそれにあたります。

 

ヴラディミアとヴァレンティンの動画もそれぞれ貼り付けておきましょう。
まずはヴラディミア。

今回のトロント行きは、このヴラディミアに集中的に学ぶセミナーがあったのでそれに参加して来たのです。ものすごい収穫でした…。今なお学んだことを消化しきれずくらくらしているほどです。ちなみにかなりのイケメンです。 

 

続いてこちらがヴァレンティンです。

 

ヴラディミアとヴァレンティンは、パンチが強くなりすぎてミカエルから人間とのスパーリングを禁止されたとのこと。クマやウシならOKだったそうです(笑)
ヴァレンティンはトレーナーとして活躍する一方、障がい児のリハビリにもシステマを活用しているそうです。

 

彼らはミカエルの「第一世代」の弟子。この2人筆頭に、長年ミカエルに学ぶ「マスター」と呼ばれる人達が世界で5名ほどいるのですが、彼らでさえ今だにまったく太刀打ちできず、謙虚に教えを請うのが創始者であるミカエル・リャブコなのです。

 

そのくらいかけ離れていると、山の麓からは山の全貌が見えないのと同じで、どのくらい大きいのか、果たしてそれが本当に大きいのかどうかすら分かりません。

「自分よりずっとすごい人よりもさらにずっとすごい人達よりも、もっとすごいんだから、きっとすごいはず」と推察するしかないんです。

 

技のキレがスゴいとか、深いことを言うとか、そんなところで感動して素直に「すっげえ!」と感嘆できるのは、そのスゴさがその人に認識できる範囲に留まっているということです。それを超えてしまうと、何も分からなくなる。そういう体験ができたことで、自分の小ささゆえに見落としているものが世の中にはたくさんあるということを、肌身に染みて感じたように思います。

 

そんなミカエルですが、「自分のシステマを作りなさい」ということを説いています。

その言葉通り、特にモスクワ本部の生徒やインストラクターはそれぞれ動きも解釈も異なり、てんでバラバラのことをやっているように見えるほど。先に挙げた2人のマスターも、それぞれ異なる個性が動きの中で表現されていることがわかるでしょう。

 

ただここで難関となるのは、ここで求められる、つまり「使える」のはあくまでも「自分の動き」であって、山上さんが言うところの「てめぇの事情」による動きではないということです。

 

山上さんのおっしゃる「てめえの事情」。それはえてしてつまらない結果をもたらします。芸術などで「自分を出す」「自分を解放する」ということがしばしば言われますが、その「自分」の意味を混同してしまうと、単なる自己顕示欲、整体的に言うなら集注欲求丸出しの、目も当てられない結果となってしまうことでしょう。

 

では「てめぇの事情」とは次元の異なる「自分の動き」とは一体、どのようなものなのでしょうか。それはおそらく、自らに潜む「てめえの事情」を一つ一つ洗い出し、それらを丹念に削り取っていくことで徐々に姿を見せるもののように思います。つまり個性と思われるものを削り落としていくことで初めて、本当の個性が出てくるものなのではないかと。

 

システマのおもしろいところは、こうした一種のカルマ落とし的な意味合いもまた「リラックス」という言葉にこめられているということです。つまり筋肉の緊張を単なる強ばりではなく、受肉したエゴやプライド、恐怖心とみなし、筋肉をゆるめることで、それらからの解放を図るのです。これに真摯に向かい合うと、自分がどれだけ醜く、ちっぽけな人間であるかが分かります。それを「まあ、仕方ねえな」と、気軽に受け入れていくことが、他者の醜さや小ささを受け入れることに繋がるんですよね。

 

また、ミカエルはこうも言っています。

「システマによって特別な人間になるのではない。『普通の人間』になるのだ」
この言葉は、こうしたことを端的かつ的確に言い表しているのではないでしょうか。

 

では子供にどのように接するべきか。

確かに子供はモノマネをして育ちますよね。これって突き詰めれば、身体の状態が転移するということだと思うのです。表面的な動作や行動ではなく、内的なものも含めて身近な人の身体のあり方をコピーしてしまうのではないかと。

すると、親にできる最善のことが一つ導き出されます。

それは親が自らの身体を理想的な状態に保つことです。簡単に言うなら、親がまず愉快で健やかな生き方をするということですよね。子供にとても大切な知恵を授けたとしても、もし教える側が不愉快な身体であれば、その状態が転移し、不愉快な子供になってしまうことでしょう。それによって多少のスキルを得ることはできるかも知れませんが、人生そのものを不愉快な方に振ってしまうデメリットは極めて大きいのではないでしょうか。

 

とはいえ、親も人間です。いつだって愉快でいるわけにはいきません。なのでなるべく多くの愉快に生きている大人に会わせるということで補うようにしています。それと多様性ですね。色々な人にあわせる、つまり様々な身体と出会い、共鳴することでその子の器の大きさみたいなものを、拡げていくことができるのではないかと思うのです。

 

それともう一点、子供に関して気をつけているということと言えば、とにかく「アウトプットさせる」ということでしょうか。言葉でも落書きでも遊びでもでたらめな動きでも何でも良いので、とにかくアウトプットさせることを重視しています。整体でも「使えば使うほど太くなる」「出せば出すほど出るようになる」という考え方がありますが、まさにそれを踏襲したものですね。

 

私自身、10年以上前にほんの少しだけ整体をかじっていた時期があるのですが、この時に「出せば出すほど出るようになる」という考え方を知っておいたことがとても役に立っています。世間では一般的に、インプットが主導ですよね。

例えば栄養であれば「ごはんを食べないと、動けない」、「言葉を覚えないと喋れるようにならない」といった考え方です。でも「出せば出すほど」式を実践していくと、これがいかに本末転倒な考え方であるかを実感します。

 

ちょっと話が飛躍しますが、人というか生命と物質の一番の違いって「動き」があるかどうかだと思うのです。となると、生命の本質とは動くことそのものなのではないかという気がしてきます。だから動きを維持するのに必要なのが食物なのであって、食物を得るために動くのではないんじゃないかと。

 

だから、「動き」というアウトプットを行うために、食物という「インプット」を必要とすると。言語に関しても、赤ちゃんはなん語であれこれ喋っていますが、あれはすでに会話の始まりであると考えられます。とりあえず発声して、周囲のリアクションというフィードバックを得て、次はもう少し別のやり方で発声してみる。その過程で言語を覚えるというインプットが出てくるのだと思うのです。つまりたくさんアウトプットをさせれば、自ずとインプットが起こり、成長に繋がっていくのではないかと。

 

そのサイクルを促すには、インプットを詰め込むよりも、気兼ねなくアウトプットできる環境を整えることが大事ということになります。この関係で言えば日本人の英語嫌いって、テストや授業でアウトプットする度にダメ出しして、萎縮させてしまうことが根っこにあるんじゃないかと。

 

そんな考えにあるので、我が家や親子システマのクラスではたくさん体力やアイディアをアウトプットさせるようにしています。なんか元気がないな、って思ったらとりあえず大声を出させてみたり(笑) その辺はうちの奥さんがとても良くやってくれているので、とても助かっています。

 

とまあ、こうして振り返ってみるとまだまだ色々と書けることがありそうです。私自身はかなり適当に子育てに関わっているつもりだったのですが、案外色々と考えているものですね(苦笑)


ところで私が返信をサボっている間にコラボクラスまで3週間ほどとなってしまいました。当日、なにをやりましょう??