往復書簡

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2014年

11月

17日

往復書簡2014 第4便 「啐琢の機(そったくのき)」

北川さま

 

「妖精さん」ですか。北川さんの口からそういう言葉が出てくるのがちょっと意外でした()。私もファンタジー好きなので、そういうワーディングは好きですよ。


北川さんの言う「妖精さん」の役目を担う大人の人を、私は「ナナメ上の大人」と呼んでおりましたが、そういう正統な立ち位置にいるわけでは無い大人の存在というのは子どもたちにとっては大事ですよね。それは言ってみればケストナーの『飛ぶ教室』に出てくる「禁煙さん」のような存在です。(『飛ぶ教室』って読んだことありますか?名作です)

 

北川さんの言う「複数の世界に身を置く」ということには私もまったく同意です。私もよく講座に参加してくれた人たちに「顔は三つくらい持ったほうが良い」ということを言っておりますが、やはり一つの世界だけを軸にしているとそれが揺らいだときにキツイし弱い。

「一つの軸を中心にして動く」「一つの物語を中心にして生きる」というのは、非常にシンプルで誰にでも分かりやすくて取り扱いもしやすく、それはそれで決して悪いわけではありませんが、その反面、決定的な弱さを抱えることにもなります。


つまりその「一つの中心」を崩されたときに、すべてが崩壊してしまうと言うことです。武術であればその軸を取られた瞬間に倒されてしまうでしょうし、人生であれば不幸のどん底から立ち上がるすべを見つけることができないかも知れません。でも軸がいくつかあれば、一つの軸が崩れたときにもそれ以外の軸を使ってなんとか保つことができます。


自分の中にいくつかの軸を立ち上げて、それらの軸が有機的につながりながら相補的な在り方をしていけば、生物的にも非常にタフでいられるはずです。それは一つの軸に拠って生きる生き方に比べれば、ちょっとハンドリングが難しかったりしますけれども、でも圧倒的にいろんな場面に対応できる。とくに価値観の多様性がますます広がる現代においては、非常に重要なことだと思います。

 

北川さんが出会った絵の先生はある意味、「世の中にはいろんな軸の立て方があるのだ」ということを教えてくれた先達だったのですね。それがたとえ完全に個人の主観的な見解や感情であったとしても、北川さんがそこで感じた「違う軸の存在」は非常に大きな影響があったわけですから、良い出会いであったと言えますね。

私もできればそういう存在でありたいと願っている人間の一人なので、北川さんと同じく「妖精さん」志望の人間です。

 

「打ち切りの技術」というのは、たしかに野口整体の中で語られる技術ですが、これはある意味、野口整体の中でも秘伝的と言いますか奥義的なものに当たるかもしれませんね。野口先生の『人間の探求』という本の中に「啐琢の機(そつたくのき)」という言葉が出てきますが、これは卵からヒナが孵る「啐」という字と、その卵を親鳥が外からつつく「琢」という字の組み合わせで、つまりヒナがまさに卵から出ようとして卵の殻を内からつつくタイミングで、親鳥が外から卵をつつくというその機の妙を説いている言葉です。親鳥が卵をつつくタイミングは、早すぎればヒナが育っていないし、遅すぎればやはり衰弱してしまうので、早すぎても遅すぎてもいけない大変シビアな絶妙さが求められるわけですね。そして野口先生は、何かを打ち切るときには、その「啐琢の機」をつかまえられなくてはいけないというのです。

 

その技術は私自身もまだまだ修行中ということもありますが、言葉にして語ることはなかなか難しいですね。いわばある種の「不立文字」の世界ですからね。「今でしょ!()」というのは、これはもう説明できない。「今でしょ!」という瞬間に、「え?何がですか?」とか言ってしまう人は、「ああ、もう遅いね」ということになってしまう。

 

ですがまあそれでもあえて打ち切りのタイミングを語るとするならば、「自発的な動きが出始めた瞬間」や「終わりを空想させる心理指導」として使うことができるでしょう。いずれにしてもその扱いはなかなか難しく、まさに高等技術ということになりますが、それだけにうまく活用できたときには、我ながら「ヨシッ!」と思って嬉しくなりますね。

 

ケンカであれば、それはいつ終えるか、いつ止めるかという介入のタイミングになるかも知れませんね。子どもたちだけでうまくケンカを収められれば良いですが、それができないときに、やはりそこにちょっと大人の手助けが必要になる。ですがそこで行なわれているプロセスを邪魔してしまってもいけないし、大人が上段から裁いてしまうようなこともいけない。良い「機」に、良い「度」でもって関わっていくことが大切です。

 

でもそこらへんは、ひょっとしたらシステマのような武術的なメソッドの方が技術や知恵があるのではないですかね? システマの中には、ファイトの際にそのような「打ち切りの技術」と言いますか「仲裁の技術」のようなものはあるのでしょうか?



RYO



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2014年

10月

27日

往復書簡2014 第3便 妖精さんとケンカ

山上さんのいう裏の教育者という存在はいいですよね。

 

別に教育者然としてなくてもいいのですが、世界を豊かにしてくれますから。私はこういう人を「妖精さん」と呼んでいます。妖精さんの役割は異なる価値観で成立する異世界を提示することですね。個人的な例としては、小学生の時に通っていた絵画教室の先生が思い当たります。小、中、高と、学校の先生に教わったことはからきし覚えていないんですが、この先生のことはよく覚えています。私が小学生だった当時、中学受験が大流行りだったため、私も巻き込まれてまったく関心のない進学塾に通うことになりました。この手の進学塾は入塾するにあたってテストがあるんです。そのためどれだけランクの高い塾に入れるのかという競い合いになるのですが、私はたまたま最難関とされる塾に引っかかってしまったのです。すると大人というのはすごいもので、私への扱いが180度変わったんですよね。それまで私を厄介者扱いしていた担任の先生までが、態度を一変させたのです。煙たがられてたいたずらっ子が、一夜にしてVIP扱いになるわけです。すると子供ですから、調子にのるわけです。塾の名前出すだけで顔色変える大人を、「なんてちょろい連中なんだ」と思うようになるわけです。

 

で、当然、絵画教室の先生もそうなんだろうと、意気揚々と自慢したところ「塾なんてのは頭の悪い奴がいくもんだ」とバッサリ。私の受かった塾がどれだけすごいのかと力説しても「一番の塾ってことは、一番頭の悪い連中が行くところだ」とむしろ吐き捨てるように言うのです。それで「お前がそこまでバカなヤツだとは思わなかった」と。その時は「なんだこの偏屈ジジイ」と思うくらいだったのですが、この時の体験は後になってじわじわ効いて、私の人生に大きな影響を与えているのですよね。要は、親や教師とはまったく異なる世界観を持つ人間がこの世にいるということを、この時初めて知ったのです。それで私は反発しつつも、心のどこかで安心しているのですよ。それはたかがテストの点数で態度を変える大人達に、かなり不信感を抱いていたからに他なりません。その意味で私は助けられたのです。この絵画の先生は、いま名前で検索しても作品が一枚もでてこないようなまったく無名の画家です。高齢で心臓を患っていたので、この数ヶ月後に他界してしまったのですが、お葬式で遺影の代わりに置かれていた立派な自画像はとても印象的でした。

 

こういう出会いって、だいたいの人は一人か二人しているものではないでしょうか。一つの世界の中でだけ生きていると、その中で生きる意味が見出せなくなった時に、存在を消すという選択しかできなくなることがあります。生きてはいけない世界で生きるのは地獄のようなものです。だから私は複数の世界に身を置くことが大切だと考えています。あまり多くても散漫になりますので2つか3つくらいがいいのではないでしょうか。山上さんの言う裏の先生、私の言う妖精さんは、常識的な社会と異世界の架け橋となるのです。ただこの妖精さんは、ただ異世界に誘うだけではいけません。引きずり込んで離さないだけでは、アンタッチャブルな「妖怪さん」になってしまいます。だから妖精さんは異世界に誘いつつ、頃合いを見計らって元の世界に連れ戻すことができなくてはいけないのです。

 

私もまた親子クラスで妖精さんになれればと思っています。子供達はみないずれ親子クラスを去っていきます。そして進学、就職して常識的な価値観で成立する社会に身を投じる中で、窮屈な思いをすることもあるでしょう。そこでふっと「あの時、北ちゃん(親子クラスではそう呼ばれていますw)とやってたことはなんだったんだろう?」と、思い返してもらいたいんですよね。そもそも良い年した大人のくせに、平日の昼間に子供達を集めてわいわい遊んでいるなんて、あいつは一体何者だったんだろう? という形で疑問を感じるかも知れません。小さなことですがそこが異世界への入り口となります。実際に足を踏み入れないまでも、そこに扉があるということが何かの助けになると思うのです。

 

ただ私の場合はお絵描きではなくて身体の使い方ですね。野口整体に「風邪の効用」という名著がありますが「ケンカの効用」が私の中でテーマの一つになっています。つまりケンカを避けるべき対象ではなく、それをきっかけにより成長できる経過の仕方を知っていきたいなと。そうすれば、意見や思想の異なる相手ともなんとなく仲良くやっていけるようになると思うんですよね。それにはやはり身体と身体をぶつけ合うというのが、必須の要素ではないでしょうか。それを避けた論理や交渉で和解しても、理屈を超えた交流みたいなのは生まれないと思うのです。

 

そういえば野口整体には「打ち切り」の技術というのがあると聞いたことがあります。すぐれた打ち切りは、打ち切られることで本人が強くなるということだったと思うのですが、これはどうやるのでしょう? また整体やシュタイナーでは子供のケンカについてどう捉えているのか、お聞きしたいところです。

 

北川

2014年

9月

05日

往復書簡2014 第2便 ウラの教育

北川さま

 

こんにちは。ご無沙汰しております。ふたたび始まりましたね。往復書簡。

じつは私、往復書簡とか交換日記のようなものって北川さんとが初めてなんですよ。

まあそもそも子ども時分の私は、クラスで忘れ物競争の一位二位を競っているような男子でしたから、そんな色っぽいこととは無縁な学校生活を送っておりましたしね。

でもひょっとしたらあのときのクラスメートの中には、そんな秘め事を密かに行なっている友達なんかもいたのでしょうか…。

 

いやいや、まあそんなことはともかく。

今度のテーマは「ケンカ」ですか。これはたしかに考えさせられるテーマですね。

もちろんケンカなんて無い方が良いに決まっています。

(整体の野口先生も最初に団体を立ち上げたときには、そのスローガンとして「みんな仲良く」ということを挙げたという話を聞いたことがあります…ホントかどうか知りませんけど)

無い方が良いんですけど、現実にあるわけだし、そして起こることを防ぐことはまず不可能なわけです。というよりそんなことをしてしまったら、もっと激しくあるいはもっと陰湿に暴力が動き出してしまって、ますます手がつけられなくなってしまいます。

 

それは整体の生命に対する一貫した姿勢で、風邪に対する態度と同じことですよね。

風邪やら発熱なんて無い方が良いに決まっていますが、日頃の不満や我慢や不摂生などが溜まってくれば、どこかで調整しなければいけないわけで、それで私たちはときに熱を出し風邪を引く。

それを抑えていれば、やがて溜まりに溜まって圧縮された排泄反応が起こることになり、それは倒れて動けなくなってしまうほどにもなりかねません。

 

ですから、風邪でもケンカでも同じ事で、ケンカになってしまったときにどうすれば良いのか、どのようにケンカをするべきか、そういうことを考えていくことの方が大切なのだと思うのです。ですから私も北川さんと同じように、ケンカは起きてしまったのなら全うするべきだと思います。

ただそのときに、やはりその「方法」が重要ということになりますね。

 

世の中、良いことであろうと悪いことであろうと、それなりの作法というものがあると思います。もちろんケンカにも作法がある。「それはやっちゃいけない」というライン。ですが、そういうのって公的に教えられることでは無いんですよね。

 

まさか学校の先生が「ケンカの作法」なんて教えるわけにはいきません。確実に親や社会から「お前はケンカを推奨するのか!」と叩かれるに決まってますからね。

だからたとえ教えるにしても、「あんまり大きな声では言えないけどな…」とウラでこっそり教えるしかない。でもそういういわば「ウラの教育」というものは、絶対に無くなってはいけないものだと思います。

 

よく「ウラ社会」とか言いますけど、そういう人たちって世の中のウラの事情やウラの作法に通じている人たちですね。私もよく知りませんけど、ウラの作法ってオモテの作法よりよっぽど厳しかったりしますよね。

オモテのルールに自分を合わせることができずにいわゆるドロップアウトした人たちが、より強固なルールを自分たちで構築していくというのも、考えてみると何故そんなことが起きるのか不思議でありますが、でもとにかくそういう人たちこそウラの作法をきっちりと作り上げ、そしてそれを脈々と受け継いでいっている。

 

きっとそこでは若い衆が、兄貴から「オマエはホントに物分かりが悪いな」とか何とか言われながら、いろんな作法を叩き込まれている。おそらくそこでの教育は、かなり封建的なやり方で行なわれているんじゃないかと空想しますが、でもそういうことの伝授って、そういうやり方の方が向いていることは確かです。一つ一つ言葉にして「これはこうで、これはこうだ」とか説明せずに、「いいから黙ってやれ」的な、「四の五の言わずにからだに教え込む」的なこと。

 

そういう教授のやり方ってついつい体罰的なものにつながりやすいですし、一般的にもそういうことを空想してしまうので敬遠されがちですが、別に体罰なんかしなくてもできるんですよね。

つまり、それこそ私たちのやっているようなボディワークを通じてです!(ドヤ顔)

 

教育の中にもっとボディワークが入ってくれば、ホントに良いと思うんですけどね…。

 

でも考えてみればなかなか難しいことですね。

ケンカという衝動的な行動をとっているときに、いかに相手に致命的なダメージまで与えてしまぬように自分の行動を自制するか、ということを内面化していかなくてはいけないんですものね。もしそんなところまで入っていけるワークができたら面白そうですが…。

 

しかし次回のコラボ、北川さんはケンカのワークですか…。

北川さんらしい素敵なワークですが、私はいったい何をしましょうかね?

いきなり大きな宿題をもらってしまいましたが、どうしようか思案のしどころです。

 

「仲直りのワーク」……とか…?

 

これはまた、ケンカするより難しかったりして!()

 

 

RYO

 

 

 

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2014年

8月

22日

往復書簡2014第1便「再開してみました」

今年も朝日カルチャーセンター立川教室さんのご厚意で「新しい親子の体育」を実施することになりました。もう開催日までひと月を切るという直前のタイミングですが、昨年同様、ちょっとした往復書簡をやってみたいと思います。

 

実は今年、私はもうテーマを決めているんです。
それは子供同士の「ケンカ」。

5歳になる私の娘が通う幼稚園は、かなり自由放任的にのびのびとやってくれるんです。だから選んだのですが、そこの先生曰く「最近の子供はケンカをしてくれない」とのこと。この幼稚園は子供同士のケンカをよほどのことでもない限り基本的に止めないそうです。なぜなら思い切り取っ組み合った方が、あとで仲良くなるからだとか。ここを中途半端にしてしまうと、かえって陰湿ないじめや意地悪につながるので、むしろケンカをしてほしい位なのだそうです。でも、しない。しつけが行き届きすぎているのか、ケンカは良くないものとする社会の風潮が染み付いているのかよく分からないけれども、ケンカをしてくれないそうなんです。

私は基本的にこの先生にかなり共感します。子供のケンカは水疱瘡やはしかみたいなもので、なるべく幼少期にがっつりやっておかないと、大人になってから変な揺り戻しが来ます。学校でのいじめ問題然り、昨今のちょっとしたミスをあげつらって散々叩きのめす「炎上」と言われるような現象もここに含まれるのではないかと思うのです。でも、今の子供達はケンカをしない。この風潮は今に始まったことではなく、私たちくらいの親の世代にはすでにあったような気がしています。だから、ケンカの仕方が受け継がれることなく失われてしまった。今の子供の世界はそんな状況なんじゃないかと思うんですよね。

だから今回はケンカの仕方や、それにつながるワークをしようかと思っているのです。でも別に「必勝法」を伝授する訳ではありません。言わば「ルール」というか。思い切りやりながらもお互いに怪我させず、やりすぎないような取っ組み合いの仕方が自然に身に付くようなドリルをできればと考えているのです。

どうでしょう。こんなこと言っちゃったら参加者が減ったりして(苦笑)

 

北川

 

2013年

10月

02日

往復書簡第13便 名無しだって良いじゃない

 講座はお疲れさまでした。無事に終わって何よりです。

 

実はあの日、私は娘を「みんなに見本見せて欲しいから、一緒に来てくれる?」と誘い出してたんですよ。だから出番が来るまでの間はずっとゴネてまして。でも山上さんのリードに乗って徐々に動き出して、「絆の棒」をやる頃にはすっかり楽しんでいました。さすが保育園で場数を踏んでいるだけあって、すごい誘導力だと感嘆してしまいました。それと「ハンバーグ」は秀逸ですね。家庭や親子クラスでも早速試してみたのですが、子供たちはとても気に入った様子です。システマには内観力を養う静的なワークもあるのですが、元気な子供たちには向かないんじゃないかと思っていたのですよ。でもあの「ハンバーグ」を挿入すると、とてもやりやすくなると言うのは大きな発見でした。

エネルギーを発散させて、身体能力を高める。

これまでそういう方向性でやってきた親子クラスに、新たな展開が生まれそうな気がします。

 

それと呼び名について。これについては私も悩まされてます。もともとライターですし、システマ本も何冊か上梓させて頂いていますので、役所に提出する書類などには「文筆業」と記入していますが(笑)

例えば誰かと会話している時など、もう少しちゃんと説明しないといけない時には「自分でも何やっているかよく分からないんです」と正直に答えたりしています。

 

ただ私、呼び名については結構どうでも良いんじゃないかとも思うんですよね。ネーミングやカテゴライズって、要は「それ」と「それじゃないもの」の間に境界を作るってことですから。それを定めた瞬間に、膨大なものが抜け落ちてしまうような気がするのです。漫画「陰陽師」で安倍晴明が「名付けそのものが呪なのだ」みたいなことを言っていたかと思いますが、それってそういうことなのではないかと。

 

私がやっているシステマに関しても、英語で言うなら「The System」。和訳するなら「仕組み」「理」あるいはカタカナで「システム」といった意味ですからね。これはなんとなく通称として呼ばれたのが定着しただけで、正式名称というわけではないのです。今に至るまでミカエルがそのまま放置しているのも、一つは名称をつけることで必然的に生じる「境界」を避けてのことではないかと思うのです。

 

私自身もまた、こうした境界の曖昧なゆるやかな繋がりってのが、これからのあり方なのではないかと思っています。こうした繋がりが、今回の私と山上さんみたいな、やっていることに共通点があるのかどうかも良くわからない2人が仲良く一緒に何かをやったりするような機会を生むのではないかと。

 

 

で、そういう人達が仲良く楽しげにわいわいやっているところに、興味を持った人が集まってくる。そういう風にムーブメントってのは本来広がっていくのではないかと思うんですよね。だからこれからもずっと「あなた、なにやってるんですか?」と聞かれて悩み続けるのはあながち悪いことではないんじゃないかと思います。


その辺のことは、今後のテーマというところにも繋がってきます。

これについては実は私、もう確固たる答えが自分の中にあるのですよ。

それは「人にあれこれ言う前に、自分自身を磨く」ということ。

どんなに立派な主義主張や提言であろうと、その人自身が地に足の着いた確かな人間でない限り、信頼することはできません。逆に心も身体も整った確かな人間であれば、主義主張など口にせずとも人がついてくると思うのですよね。となると、やることと言ったら自分自身を見つめて磨いていくということだけで良いのではないかと。怠け者の私はそう思ってしまうわけです(笑)

 

そうしていった先に、もう少しみんなが当たり前のこととして自分の身体に向き合う社会になれば良いな、と思っています。身体と言う基準ができれば、頭だけで考えたような理屈に振り回されることも多少は減っていくでしょうからね。ただそれが実現するのは何十年、下手したら百年単位で先の話となるかも知れないので、今自分にできることを一つずつ、やっていくしかありません。

 

では具体的になにをやっていくのか。それについてはおそらく死ぬまで悩み続けることと思います。必要なことはその時々で常に変化していくことでしょうからね。それはつまり、私はいつまでも常に誰かの知恵や助けを必要とし続けるということもまた意味するのです。

 

というわけでこの出会いを機に、これからも山上さんから色々と学ばせて頂ければ幸いです。講座の続編や他の企画など、今後も何かとお世話になる機会があるかと思いますが、なにとぞよろしくお願いします!

 

 

北川